5月 31

人間というものはそのほとんどが面倒くさがりらしい。

かくいう私もかなりの”面倒くさがり”だ。自分や一部の人間だけが「面倒くさがり」だと思ったら大間違いで実際世の中の大半の人は自分が「面倒くさがり」だと思っているのがほとんどらしいんですよね。

でもそれは今に始まった事ではなくて、大昔人間が原始人だったころから、既に「面倒くさがり」になってきた。

最初は狩猟をして危険を犯して肉を得ていた。人間はそれを「面倒くさい」と感じて、肉を効率よく危険を犯さずに得る為に”畜産”することを思いついた。

最初人間は歩いていた。でも面倒くさくなって、自転車、機関車、車を作った。

いちいち長い階段を登るのが面倒だから「エレベーター」を作った。

なんでも「面倒くさがり」から人間はその面倒くさい作業を解消するために面倒くさい作業をして、様々なものを開発していった。

もちろん今もそうだ。

「面倒くさがり」が人間を進化させた。

“面倒くさい”という感情こそが人間を突き動かした。

だから「最近の若者は面倒くさがりで」などと言うのはお門違いだ。だって人間は原始のころから「面倒くさがり」なんだから。

お金も「面倒くさい」を解消するからお金が発生する。

いちいち自分で家を作るのは面倒だから「大工さん」に家を建ててもらう。

いちいち野菜を育てるのが面倒だから「農家」に野菜をつくってもらう。

いちいち服を編むのが面倒だから「服屋さん」につくってもらう。

原始時代は全部自分でやっていたことですよね。でも「面倒」だから、それを解消するために
役割を分けた。

それをしてもらうのにお金が発生する。

すごく自然な流れだ。
“面倒くさい”を代わりに対価を払う。

お金の上限さえなければ「面倒くさい」はなくなるだろう。

だって「面倒くさい」はそのほとんどが「お金」で解決するから。

その「面倒くさい」を解消する為の努力をすることによって人間は効率よく、うまく生きられるのだろうと思う。

『「面倒くさい」を解消する為の努力』自体が面倒くさい人は泥沼ですよね。どんな事柄も「面倒くさい」になってしまって、結局なにもできなくなる。

「面倒くさい」をうまく解消できれば人間は「人生」をうまく生きられるのかもしれない。

生きている事を「面倒」と思わなければ…ですがね。

以上。

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5月 15

自分は友達少ないですがなにか?

メディアじゃさも”友人”や友達を”良いもの”と伝えていますが自分はあまりそうは思いません。

自分は友人少ないです。

でもこれは敢えてです。
なんといわれようと。

友達100人できるかな♪

そんなにいたらいちいち大変で死んでしまう。

自分は自分の事で精一杯なんです。自分の事でさえちゃんとできないのに他人とずっといるなんて考えられません。

だから結婚もおそらく出来ないでしょう。人間できてないし。

それにしても大学の頃など他の大学生はよく群れていたなぁ〜と思う。

あんなに群れて何が楽しいんだろう。なにが良いんだろうといつも不思議でなりませんでした。

大学内で飯食うのも、講義室で座るのもいつもいっしょ。みたいな。しかも10人近くで。遊ぶのもいつもいっしょに群れていたんでしょう。よく知らんけど。

俺も友人は居ましたが、なんか違うんですよ。もっと崇高で。ベタベタせず、クリエイター仲間という感じだった。

作品が苦労の末完成し、その後苦楽を共にした仲間との酒はとても甘美だったな。

自分はできるだけ人に関わりたくないタチなので大学の時は、見た目チンピラみたいな雰囲気でした。(今もあまり変わりませんが)

縦も横もデカく坊主、サングラス。イカツイネックレス。誰もが自分の事は恐い人だと思ってたらしいですね。

絶対タバコ吸ってるって思われていたみたいですし。

まぁそうなるように意識してそうしてたんですけども。しかもできるだけ「話しかけんなよ」オーラを出していました。

軽い対人恐怖症的な部分も多少あるのかも知れません。人ごみ恐い症候群も多少ありますし

まぁ実際は只の一般人と変わらない善良な市民だったわけですけどね。今でも大学の頃の数少ない仲間は良い人ばかりで、変にベタベタせず良い関係だと思っています。

中学、高校と部活してなかったし、大学の頃もサークルも入らなかった自分は「先輩」とか「後輩」とかがいた経験がありません。

友人がたくさんいてしょっちゅういっしょに遊ぶなんて人生の中で基本思い当たりません。

本当に気心知れてる仲間が幾人かいればそれで十分。

もちろん逆に一人も友人が居なければそれはそれで辛かったかもしんないですけど。そうではないし。

この生き方は完全自分用なんでみんな真似しないように。

人生の一番のストレスは他人との関係でしょう?

つまりたくさんの友人がいればいるほどストレスと心の負担が増えるのです。

でも本当は良くないんでしょうね。こういう生き方は。

でももうそういう性格なんでどうしようもないす。

群れるのは人間が猿だったころの名残なんでしょうね。弱い人間は多勢になることによって「安心」を得るという。結局心の弱さがそうさせるんではないかとそう思う。

過度の友人の数はストレスとトラブルと自分の時間を消す産物に過ぎない。

本当に心許せる”良い仲間”が数人いればそれで十分じゃないですか。

自分はそう思っています。

以上。

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5月 08
We ♥ blog
Attribution-NonCommercial-ShareAlike License by tarop

和田氏のブログでも同じようなテーマの記事がありましたが
私も一つ。

この前お昼にいいとも見てたらテレフォンがはんにゃでしてね。川島でしたっけ?あの微妙に冴えない相方。

あいつがツイッターやブログしてるっていう話題になったんですけど、それであいつがタモさんに「まぁブログは日記みたいなもんですよね」的な発言をしていましてね。

私はこれでまた勘違いのアホが生まれるなって思いましたね。メディアはなぜかブログを「WEB日記」にさせたいのか、そのような言い回しが多い。事実今のツイッターのように数年前ブログブームなるものが起こった。

メディアがこぞって「ブログ」というものをメディアで紹介した。そんな時の説明が大概以下のような感じ

「普通のホームページと違って、誰でも簡単に作れて、無料。日々日記のように綴るのがブログ。数多くの芸能人もブログで公開日記を書いている」

などというような紹介のされ方が多かった。

はっきりいってこれがマズかった。

テレビの影響とは凄まじく、一般の人達は「する・しない」に関わらず、「ブログ=公開日記みたいなもの」という意識を植え付けられた。

実際そういう風に解釈している人は非常に多いと思う。

ではブログとはなんなのか?

答えは”ログ”です。

元々ブログとはWeblogの略だ。つまりログつまり記録を残していく為のもの。だから日記とは違う。

いや、でも日記が駄目とは全然言わない。

“駄目”の線引きは「その記事の情報が他の数多いるユーザーに対して、有益か否か」という点だ。

Webページというのは、基本的に不特定多数の人がなにかの”情報”を知りにWebページを検索してくるのだ。(細かい事いえば他にもあるが)

つまりいずれの記事も誰かに対して有益な情報がなくてはならないと思う。

つまりブログだろうが、通常のWebページだろうがその記事は誰かに対してプラスになる内容が少しでも含まれていなければならないと思う。

なのに、だ

一般人の日記ブログで「今日彼女とデートした。夜12:00に寝た」とかそんな情報のどこに”有益”が存在するんですか?

誰も知りたいとは思わないんですよ。そんなくだらない記事。

芸能人の日記にはテレビで語られない本人の素顔や本音が書いてあったり、芸能界の裏舞台や芸能の交友関係なんかが書いてあれば、もちろんそれなりにファンであればその情報を知りたい人間というのはいるでしょう。

だから有名人なんかは日記でもそれなりにまだ許されるとは思いますが、どこのだれかもわからん匿名の人間の日記などだれが好き好んで見るんだ?

芸能人は”日記”でもゆるされるかもしれない。でも一般人は記事を書くなら、必ず、有益な情報がなくてはならないと思う。そうでないなら止めた方が良いと思います。

自分はもちろん毎回の記事にそれなりに有益になる、すこしでも為になる記事を書いているつもりです。

ブログをもしこれから書こうという方は、もしくは日記をブログにしているかたに言いますけど、今から書くその記事には有益な情報は含まれていますか?

それを念頭に置くと、ブログは「良いもの」へと、なることと思います。

つまりは「おもてなしの心」です。
自分以外の多数の人に対して、それがすこしでも良い内容でいかにおもてなしできるか?

それが鍵だと思います。

自分はそう思います。

以上。

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